玉川堂物語

九段下 玉川堂物語〈その1〉

九段下 玉川堂物語〈その1〉

里見八犬伝で有名な滝沢馬琴の生まれ育ったところは、九段下の交差点を、飯田橋寄りに右に曲がった最初の坂道、中坂のあたりでした。
今でこそお濠端の靖国通りの方が賑やかですが、江戸時代には上図の絵のように、九段下よりもホテルグランドパレス寄りの中坂の方が、賑やかな町人町でした。
神保町や駿河台の方は、直参旗本の御屋敷町でした。

そんな時代、今から百五十年前の滝沢馬琴の文政十年丁刻日記に次の様なくだりがあります。

九月八日 晴夜ニ入薄雲
昼後出宅 飯田町江罷起 八月分 薬売溜致勘定 松屋權左衛門 払遺え。玉川堂江御筆二十対(四十本の事)誂え。小松屋而砂糖求え。夜ニ入 五半時帰宅。

九月十一日 朝四時前薄雲 薄暮 晴
昼比 清右衛門様入来。玉川堂江誂置候筆 二十対之内 五対出来持参。

この日記を読むと、下駄をはいて眼鏡をかけた馬琴が、玉川堂へ筆を求めに歩く姿が目に浮かぶ様です。

その頃は、東京湾唯一の昔の燈台が今も残る靖国神社のある坂の上からは、品川沖に入る船の姿がはるかに望め、富士山の勇姿も眺められた時代です。

仏国大使館も大隈重信邸も今の千代田区役所のあたりにありました。幕府が大政奉還をし、時代は徳川将軍から明治新政府に移行すると、幕府の直参旗本の家が沢山あった昔の神保町方面には、ぽつぽつと町人が移り住むようになりました。
玉川堂も縁あって中坂の小さな店より、九段下の爼橋(まないたばし)の船着場近く今川小路に間口の広い店を構える様になりました。

御維新になりますと、神田には今の一ツ橋大学や中央大学、日本大学、専修大学、正則英語学校、国学院、学習院、仏語教育で有名な暁星学園、開成中学と沢山の学校が出来、駿河台には西園寺公が住み、それらの政府高官、貴族や学生に本を提供する本屋街が自然に発生し、そういう学校へ留学する中国人留学生の為に、安くてうまい維新號の様な中華料理店が沢山出来ました。

『玉川堂』はもともと筆屋ですが、裏に大小の部屋があり、そこでは簡単な勉強会、学生の小さな宴会などが開かれておりました。
「玉川亭」という茶亭(貸席)を開いておりました。ある時は文人墨客が集まり、自分たちが持ち寄った書画を肴に鑑賞し当時流行の書画会を楽しみました。

翌日になると、そこには東大の穂積重遠先生(法窓夜話の著者)の御一党が集まりました。その頃、大学での講義は全て英語や仏語、独語で講義をしておりましたが、それでは不便なので、適当な日本語で法律用語をと皆で知恵を出しあい、訳語を選定する会議をやっておりました。
また、その頃は今とちがって役人や武家の流れをくむ教養人は、漢詩を作り楽しむグループ(吟社という)が、各地にいくつもありました。玉川堂では、初めて習字の国定教科書を書かれた長三洲先生が、大分の大詩人・広瀬淡窓の流れをくみ、「玉川吟社」と名付け、月に幾度か漢詩を作る会を玉川茶亭で行なっておりました。

その頃、神保町には東京女子医大や順天堂大学があり、そこで助手をされていた野口英世博士が、いよいよ渡米されるに際し、学友が集い、玉川堂の茶亭でささやかな歓送会を催した由。二松学舎大学で漢文を修めた夏目漱石は、学校を終えると九段の坂を下り、本来、書と絵の好きな漱石は、玉川堂に寄り筆を買いもとめた。麹町にお屋敷のあった永井荷風は、父に頼まれ玉川堂の筆を愛し、晩年までよく立寄られました。

今や労働時間の短縮よりも、週休二日制、あるいは、三日制といわれる今日ですが、そもそも明治の初め、明治新政府は富国強兵、西欧列国に一日も早く近づく為に殖産し、工業をおこさねばと大いに工業に力を入れましたが、それにともない、労働問題が起こり始めました。婦人も子供も十六時間も働かされるような時代でした。

そんな問題をなんとかせねばと、英国派(島田三郎、田口卯吉)に対し、労働者保護をかかげる後の東大学長・小野塚喜平次や、金井延(河合栄治郎の先生)、高野岩三郎などの学者が、玉川堂の茶亭に集まり、独逸の工業立法や社会問題、労働時間の問題等を研究する社会政策学会を発会したのです。

筆屋と社会問題とは、なんともおもしろい組合せです。

 

九段下 玉川堂物語〈その2〉

九段下 玉川堂物語〈その2〉

九段坂の図(明治30年頃)

筆と中国は縁の深いことはもちろんですが、犬養毅首相(二・二六事件で暗殺されましたが)は、号を木堂といい、多くの中国人政治家や文化人と接触し、また、大いに擁護し、接待しました。

犬養木堂は、玉川堂に「芸苑崑玉」という額や「翰墨因縁」をくださいました。
乃木希典将軍は、「健筆凌雲」という額を書いてくださいました。画家でもあり、書家でもあった中林梧竹は、「春華秋實」という額を書いてくださいました。中国の偉大なる大画家・張大千先生(敦煌の壁画を、今から六十年前にこもり、模写した有名な四川省成都出身の大画家。台湾に亡命し、後に蒋介石総統の一代記が、台北の中正記念堂に掲げられております)は、玉川堂の筆、とくに山馬筆を愛し、名筆の四つの要素として「鋭齊健圓」という額を書いてくださいました。中国最後の皇帝・溥儒先生は、いつまでも商売が繁昌するようにと、「駐鶴」という字を送ってくださいました。

こんな小さな店にも、先祖が努力した結果として、多くの人々が沢山出入りしてくださいました。
有名な方ばかりではなく、娘時代から三代に渡って私共の筆を御愛用いただくお客様がおられることが最大の宝です。

そうそう、ご近所の飯田橋で若い頃活躍された田中角栄元首相は、書道の大好きな首相でしたが、中国と国交回復なさった時、毛沢東主席に、いろいろなお土産をお持ちになりましたが、その一つに私共の大きな筆、それは直径十五センチメートルぐらい、長さ二十五センチメートルの純日本産の馬毛筆でした。その銘は「驃騎大将軍」(司馬遷の史記に出てくる、日本でいう征夷大将軍と同じ武官の最高位の名称です)という景気のいいお名前の筆でした。

いかにも華やかで、明るく派手な事の大好きな田中さんにふさわしい筆です。中国は筆の本場ですが、あんなに馬がいながら、馬毛の筆はありません。中国の文人に最もよろこばれるのは馬毛の銘筆なのです。さぞや毛沢東主席もよろこばれたことでしょう。毛沢東主席は大書家ですから。

最近の九段下、神保町には、昔の数十倍の外国人(米国人、仏国人、英国人)がたくさん歩き、あるいは生活しております。嘘だとお思いでしょうが、白系ロシアかユダヤ系のロシア人で、ボストンに生まれ、東洋の文物、哲学、美術に詳しいアメリカ人ニコライさんがおられます。
奥様はフランス人で、一年の半分はパリのノートルダム寺院の近く、セーヌ河畔のアパルトマンに住む御夫妻がおりますが、この方が中国の有名な書を独学で学び、それは素晴らしい書を書く方がおります。

毎年、この御夫妻がくるのが待ちどおしいのです。本当に西洋人の中には、書のすぐれた理解者はいるのです。

中国の文化の伝統の中に、良きにつけ、悪しきにつけ、孔子思想が脈々と流れていますが、今、台湾に大陸から逃れた孔子の後裔、百七世の孔徳成先生がおられますが、孔徳成先生は、お若い頃、日本に留学され、こよなく神田の神保町本屋街を愛されました。

年に幾度か訪れますと、三省堂のあたりから小宮山書店、一誠堂書店、飯島書店、そして、山本書店の漢籍をのぞき、最後に玉川堂に寄り、筆を幾本か買い求めるのが楽しみだそうです。お別れに幾度も幾度も手を組み、挨拶をかわす。良き中国伝統を守る方を見るのは、楽しくうれしい事です。

大正時代は神保町一丁目から二丁目、私共の店のある三丁目(昔は今川小路といっておりました)は、横浜の中華街や晩翠軒で有名な田村町や虎の門よりも、もっと沢山の中国料理店があったそうです。(中国通の後藤朝太郎の本による)

是非、神保町から九段下駅に来られる時は、専修大学前の交差点を渡り、今川小路の玉川堂へお立ち寄り下さい。

最後に私共が最も御ひいきいただいた明治・大正・昭和の大書家長三洲、日下部鳴鶴、渡辺沙鴎、厳谷一六、小野鵞堂、阪正臣、丹羽海鶴、鈴木翠軒、尾上柴舟、田代秋鶴、高塚竹堂、手嶋右卿、金子鷗亭、日比野五鳳、今関脩竹先生方により、私共の銘筆が生まれ育ちました事を心に銘記いたします。合掌。